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女性医師たちの歩み

ねが

“継続は力なり” ―生涯現役を希って―

川田 喜代子

昭和26年。その頃、アメリカ進駐軍に接収され大阪の浜寺から京都へ移っていたので京大小児科へ入局。医師としての第一歩を踏み出した。注射の失敗など数知れず、受持ち患者の鼠蹊ヘルニアの手術に外科へ付添って行って卒倒したり。或る時はプライベートなことで早退した後、生活保護(その頃は少なかった)で入院中の結核性髄膜炎の2才の患児が死亡。数日後、その両親が面会にとのこと。責任を追及されるのではとびくびくして出たら“うちの子は先生が大好きだったから”と牛乳石鹸の小箱を差し出された時には思わず涙が・・・。

その後、父の友人の開業医の先生が急死されたのでお手伝いにと要請され、籍は京大にそのままで週2回泊り込みで園田の医院へ出向。園田には競馬場があり、往診の途中、狭い堤の道で馬と擦れ違う度に自転車から降りてよけるので十数軒の往診がなかなかこなせず困ったり、夜中の往診に到着すると枕元には親類縁者がずらーっと座っておられて、私の方が逃げて帰りたい程であったり。又、ネオフィリンの静注が心臓病によく効くと勉強したばかりだったので、早速、静注したところ奇蹟的に恢復。とても感謝されたので、次の往診先でも使ったところ、今度は心臓がぱくぱくとなり慌てたり。全く綱渡りのような日々であった。

丁度、その頃、父の友人がハワイへ引き揚げるのでその耳鼻科を譲りたいとの事。小児科から耳鼻科へ入局しなおして昭和28年2月に見習い看護婦を一人連れて大阪の日本橋へやってきた。初めはとても心細かったが、幸いにも京大耳鼻科の後藤教授が励ましに立ち寄って下さったりして何とかスムーズに滑り出した。

昭和29年に結婚。長男と長女に恵まれたが、その間、ペニシリンショックを経験。又、酔っぱらいの患児の父に脅されたり、育児の事で悩んだりの日々を過し、時には医師を辞めたいとさえ思う事があったが、その都度、主人や友人が居合わせて難を逃れることが出来たのは全くラッキーであった。

ここで私の夫について言及してみたい。夫は静高。京大卒業後小児科へ入局。大阪から通勤していたが、その後私達の仲人までしていただいた教授が金沢大学へ転任されるのに一緒にくるように要請され、二人でずい分悩んだが、私の開業もやっと地について順調なのをみて金沢行を思い止まってくれた時には夫に改めて心から感謝した。

昭和35年、私と隣同士で小児科を開業。最初から独立採算制をとり、入口は勿論、従業員も会計もすべて別々。ただ、お財布は何故か?私が全部握っていた。後で考えると税金その他のこともあり正解だったが、科目が別別でも入口その他は一緒というスタイルが殆んどの当時としては画期的で、女性の立場を尊重してくれたと思う。又、“相手の立場に立って”を家訓として家族は勿論、患者や従業員にも接し、私が子供の教育で悩んで弱音を吐いたりした時も“大丈夫だよ”と慰めてくれ、私の学位についてもがんばるよう励まし支えてくれたのである。そして、自分自身も努力をおしまず、社)浪速区医師会長、社)小児科医会名誉会長、平成10年に勲五等双光旭日章を受章したが、残念なことに平成15年より病気療養中で、現在は、幼稚園時代、ヤンチャで手こずった長男が後を継いでいる。

こうして、ふり返ってみると、女性医師が仕事を辞めずがんばっているのは、“勤務医の場合は院長、開業医の場合は亭主の理解度による”と或る先生がいみじくも喝破された事と、私自身“継続は力なり”を信条にがんばって56年!!  2度の出産と2度の骨折以外、休診せず、時には曾孫まで4代の家族を診察してきて、今では浪速区医師会員中一番古く、“プリムラ賞”や“吉岡弥生賞”をいただけたのは、何よりも医師の先達としての夫の包容力と理解を初め、関西医大の先輩やすばらしい友人、家族との幸せな出会いがあったからと心から感謝し、健康の許す限り生涯現役でと希(ねが)っている。そして、今、再び皆さんにも“継続は力”少々苦しいことがあっても、“折角の天職を絶対に辞めないで”と声を大にしたい。

2009-2013 Osaka Medical Women’s Association.