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女性医師たちの歩み

両親の反対を押し切り、医学部へ!

芳川 た江子

父は、私の小さい頃、小児科・内科で開業し、その後80床(現在217床)の病院を高槻市につくりました。私はその頃、宝塚市にある小林聖心女子学院小学校に通っていました。これは、私の両親が現在の皇后美智子様にあこがれて、私を聖心女子大学に進学させたかった為です。小林聖心高校1年生の時に、私は急に医学部に行きたくなり、父に言うと、女性が医者になったら不幸になると言われ、何故か猛反対されてしまったのです。しかし私はめげずに、半年かかって父を説得しました。

ようやく医学部受験を許してもらったのですが、その時に約束させられたことがあるのです。それは、卒業して医師になり、結婚して子供ができても仕事をやめないこと!その覚悟がないなら行くなと言われました。それは、私が一人医学部に入ることで、将来ある男性医師を一人なくすことになるので、医師一人つくるのに税金を使っている以上国家の損失になると言われたのです。

その約束通り、私は産前産後6週間休んだだけで、病気で休むこともなく、ずっと勤務医を30年近く続けています。これは、関西医大6回生の時に結婚し、家庭との両立がしやすい皮膚科を選んだことや、勤務している病院に保育所があったことや、家族などまわりの人の協力があってこそだと思います。皮膚科といえども、私のまわりの女医さん達は、結婚しても誰も仕事をやめないのですが、子供ができると預ける所がないという理由で、ほとんどの人が仕事をやめていってしまいました。これが、父の言う国家の損失なんだと思いました。

その父は、昭和58年9月9日に62歳の若さで亡くなりました。高槻市医師会長として三島救命センターの設立に走りまわっていた父が、救急の日に亡くなったことは、何だか不思議です。母は健在で、現在81歳ですが、カラオケや社交ダンスなど青春を謳歌しています。主人は、父が亡くなった後、27歳の若さで2年半病院の院長をしてくれましたが、その後阪大に帰り、現在は兵庫医大の内科の教授をしています。娘は、私の両親のかつての希望通り小林聖心小・中・高から聖心女子大学に進学してくれて、社会人5年めです。息子は、研修医2年めで、何故か勤務医不足の地方の市民病院で働いています。私は、子供達も独立し時間的余裕も出てきたので、これからは女医会や医師会、ゾンタの会などの活動を通じて社会貢献できればいいなと思っています。

2011年4月

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