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女性医師たちの歩み

無計画の計画

大西 洋子

医者になりたいわけではなかった。医者にならなければならない、と言われ続け育てられてきたささやかな反抗心で、大学受験の時、滑り止めに文学部を受けた。本を読んだり絵を観たりする生活のほうが好きだったから、できれば文科系の学部に進み平平凡凡な生活が送れたらいいな・・・と漠然と考えていた。しかし、女の一人っ子だったため、父の医院を継ぐのは当然の使命であり、父母も祖母も「あなたは、絶対に医者にならねばならない。これは、仕方のないことなのだ。」と常々私に言い聞かせた。流されるようにして受けた医学部に合格して「ひょっとして、文学部にすすめるのでは・・・?」との夢ははかなく消え去り、医学生としてのスタートをきったのが、昭和48年である。よく遊んだ。今になれば、「もったいない、何故あの教授のあの講義をさぼったのか? 何故、真面目に勉強しなかったのか?」と思えるのだが、学生時代には医学への情熱はなかなかわかず、その場しのぎの試験勉強しかしなかったことが悔やまれる。自分の人生に全く計画性を持たず、「親から言われた通りの道を行けば、それが幸せなのだ」と割り切ることもできず、くすぶるものを感じながら、結局は周りの言うなりに医者になってしまった。無計画この上ない。自分の人生なのに・・・。だから、自分の4人の子供たちが自分なりに考えて、「医者になりたい」とか「医者になりたくない」とかいって、それぞれの道を模索しながら大学や仕事を選んでいる姿をみて、自分の若いころを深く反省している。よく今頃の若い者は・・・という苦言をきくが、今の若い人たちの中にも自分たちの人生に対し真面目に計画性を持っているしっかりした人を多くみる。

卒業後すぐ、見合い結婚、泌尿器科に入局した。研修の終わるころから相次いで4人の子供を出産した。2度の流産もあり、医局から自宅近くの大阪中央病院にお世話になることとなった。一人娘であったため、実家の両親と同居し、子供の面倒はほとんど母とシッターさんがみてくれていた。しかし、4人目が生まれるころには、さすがに母とシッターさんでは悲鳴をあげられ、病院も常勤というわけにはいかず、外来だけをパートでいかしてもらい、子育てのほうが主となり、父の医院を手伝いながら子供の幼稚園、学校の役員などをこなす生活が続いた。子供の数も「無計画やなー」とよくいわれたものだ。

このように、卒業後の12〜13年は、仕事も子育ても両親が一緒だったからできたものの、どちらも中途半端なものだったように思われる。しかし協力してくれる両親がいたからこそ、細々ながらも医療を続けることも4人もの子供を育てることができたのだ。

継がないといけない医院は「内科・小児科」。泌尿器科を選んではいたが、(これも計画性がないといわれました)これは、ポリクリの時に小児泌尿器の奇形が多いことに興味をもち、小児泌尿器が得意だった兵庫医大の生駒教授の門をたたいたからであって、今になっては正解だったと思っている。当時は女性が泌尿器に入局する例はほぼなく、半分好奇の目で見られることも多かった。このように、無計画ではあったが、最初から的をしぼらず「何でもあり」な医者として、また妻として(あまり妻らしくはないと思うが)、母親としてPTAにふりまわされた生活も現在振り返ると、すべてが今の仕事の糧となっていることを最近痛感している。

父が土台を作ってくれた「内科・小児科」の医院を引き継ぎ、「内科、小児科、泌尿器科」というへんてこな看板を掲げての開業生活、すなわち本当の意味での独り立ちはここ15年になるが、今までの多くの体験を基に、ようやく医療でも人さまのお役に立っているのではないか・・との自信が少しついてきたように思われる。開業してからは、地域の校医や園医、地区医師会の理事、内科医会の理事などのほか、この大阪府女医会の理事の末席にもいれていただき、女性が医師として働き、子育てもしていくということがいかに難しいかという問題点を、あらたに認識しているところである。私は幸い両親という助け舟があったから仕事と子育てをやってこれたが、核家族の昨今では、医者でなくても女性が仕事をしながら子育てをすることにはかなりの問題が山積みとなっている。

計画性のなかった頃を振り返り、これからの若い女性医師がどうすればもっと社会で活躍でき、たくさんの子供も育てられるか・・・の力になっていきたいと思っている。

2009-2013 Osaka Medical Women’s Association.