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女性医師たちの歩み

母から娘にそしてさらに未来に繋げるべきもの

中川 やよい

私は、愛知県の三河湾に面した幡豆町という港街で生まれ、4人兄弟の中ただひとりの娘として育ちました。母は眼科医師として長年幡豆町で開業しておりましたが、96歳の今は引退して弟が後を継いでいます。

祖父は明治29年に済生学舎を卒業しており、吉岡弥生とともに学んだそうです。母は祖父の次女として大正3年に生まれ、昭和12年に帝国女子医専を卒業しました。卒業後、同郷の医師と結婚して満州に渡り2児(長男、次男)が生まれましたが、戦争で夫と死別したために帰郷し、眼科を開業しました。子供を育てるために懸命に働いたと聴きます。後に電力会社の技術者であった私の父と再婚しましたが、75歳まで現役として働き地域医療に貢献していました。

私は母が開業してから生まれており、職住一致の家で育ちました。小学校から帰るとまず、居宅の隣にある母の診療所に行き「ただいま」と告げて、そのまま受付けの中や待合室で遊ぶこともありました。いつも忙しく仕事をしている母を見て育つうちに、いつの間にか自分も医師となり仕事をすることを当然と考えるようになりました。私の名前は祖父が付けてくれました。3月生まれということで付いた名前なのですが、祖父のこころの中には、若い頃に共に学んだ吉岡弥生にあやかるようにとの思いがあったと、後に母から聞かされました。そんなこともあり、祖父、母と同じ眼科医の道を選びました。

徳島大学医学部医学科卒業後、大阪大学医学部眼科学教室に入局しました。研修終了後に就職した大阪逓信病院(現NTT西日本病院)では部長以外3人の常勤医が女性という環境での勤務を経験しました。電話交換手に女性が多かったためでしょうか、逓信病院では女性の働く環境整備の制度が整っていて、当時にしては珍しく先輩の女性医師が、1年間の育児休暇を取得して職場復帰されるのを実体験しました。

内科小児科を開業していました主人の父が病気となったのを機に昭和60年に開業しました。当時は、一線病院での眼科医療、特に種々の眼科手術から手を引く事が残念でなりませんでした。幸い研修医時代から続けていた眼アレルギーについての研究で昭和61年に大阪大学医学博士取得でき、その後もつい数年前まで非常勤講師として阪大病院で週1回の眼炎症の外来診療をさせていただけましたことは、眼科医としてのキャリア形成に非常に大きな助けとなりました。

平成6 年に旭区医師会理事となり4年間は広報を担当し、その後の2年間は庶務を担当しました。平成12年より旭区医師会副会長となり、大阪府眼科医会理事にも就任しました。平成14年に旭区内や眼科医会の先輩からの勧めで大阪府医師会理事就任し、8年間に渡る貴重な経験をさせていただきました。特に日本医師会の男女共同参画委員会に平成16年から参加して、女性医師支援の活動に寄与できましたことは、今後も女医会をはじめ、眼科医会さらに再度医師会で女性医師支援の仕事を続けるための大きな励みとなります。

女性医師が全医師の3割を占める時代がもうそこまで来ています。医師という職業を選択したすべての女性が、挫折することなく、自らの望みを全うできる社会を作るために、これからもベストを尽くしたいと思っています。自信を持って次の世代にバトンタッチ出来るように、皆で一緒に頑張りましょう。

2009-2013 Osaka Medical Women’s Association.