一般社団法人 大阪府女医会 トップページへ

女性医師たちの歩み

振り返って思うこと

榊 徳子

物心つくやつかずの頃、深夜、往診に向かう父の車の後部座席で眠ったり目覚めたりしていた記憶がある。父が運転する車ではあったが、往診に向かうのは耳鼻科開業医であった母である。今にして思えば、その日扁桃摘出術を行った患者さん宅を、夜診後に様子を見に訪れていたのであろう。父は、当時の松下電器産業に勤める経済成長期のいわゆるモーレツサラリーマンであったが、母の仕事には大変に協力的であった。運転免許を持たない母のために車を出し、私一人を夜に家に置いていくわけにはいかず、一家総出の往診になっていた訳であろう。

こういった原風景の中で育った一人っ子で一人娘の私は、幼心にも自分の進むべき道と思い定めていたのか、医師を志し、母の母校の関西医科大学に入学した。卒業を待たずに縁あった心臓外科医の夫と結婚、卒後は耳鼻咽喉科に入局した。忙しく厳しいながらも良い先輩や恩師に恵まれた研修医生活、医局の奧にあった四組ほどの二段ベッドに、もちろん男女の別もなく白衣のまま仮眠するといった「劣悪な環境」も今では楽しい思い出である。

研修を終え、「研究をしたい、耳鼻科医ではあるが全身を診られる医者になりたい」という思いで病理学の大学院に入学した。この理由は確かに本当であるが、妊娠が判り、院生なら周囲に迷惑をかけることも少なかろう、との思いもまた本音であった。大きなお腹で病理解剖やラット相手の実験をしたものである。時間に追われる臨床の診療から離れ、論文を読み、書き、また系統的に診断できる力を与えてもらえたのは正しく大学院での経験のお陰と思っている。

学位を得て、臨床に戻り子供も三人を抱えた。勤務医生活は次第に時間的にも難しくなり、ちょうど母も七十を超えてきた。できれば手術にも携わっていたかったが、悩んだ末に母の診療所を手伝う形で大学を退職し、正式に継承して現在に至っている。開業してから無謀にも四人目の子供を生んだ時は、前日まで診療を続けていた。その末っ子もようやく今年中学生になり、長い子育ても一息ついた。医療情勢の厳しさは日々実感され、通って下さる患者さんには様々な意味で満足してお帰り頂くことに心を砕く毎日である。

確かに今も、めまぐるしく飛び回る様な、心配も挙げればキリのない生活ではあるが、来し方を思うと「苦労の思い出」は不思議に浮かんでこない。両親や夫はもとより、恩師、先輩、同僚から診療所のスタッフ、お手伝いのおばちゃんに至るまで周りの人に本当に恵まれていたと改めて思う。幸運にも健康であったことと「なるようになる!」のO型気質も幸いしているのかもしれない。これからも「かくあるべし!」ではなく、私が必要とされる方向に力を尽くしていきたいと思う。医師を目指す子供達、殊に、今年母と私の母校に我が家の女三代目として入学した娘がどのような女性医師としての物語を紡いでいくのか、世間の役に立ち、自己を実現できるものであれかし、と見守りたい思いの昨今である。

2009-2013 Osaka Medical Women’s Association.