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女性医師たちの歩み

ロールモデルの先生との出会い

澤田 宏子

小学6年生の時に父が肝硬変と診断されました。父は昭和11年生まれで、中学生の時に上顎癌になり、大阪大学から東京の病院を紹介されて手術を受けたそうです。父が20歳になったときに主治医の先生がよく生きられたすごいと大変喜んでくれて自分の病状を理解したそうです。そんなこともあってか厄年を過ぎてからいつ死んでもいいわとよくつぶやいていました。肝硬変と診断されてから大好きだったお酒をやめて、闘病生活を送っていましたが、食道静脈瘤による消化管出血をたびたび繰り返すようになりました。兵庫医科大学の入試前日に、タール便が出て、私に心配させないために検査入院と両親は嘘をついたのですが、その日のうちに大量出血のためショック状態となり私は病院にかけつけました。父の意識は低下し、血圧が40/台の小康状態が続き危篤状態になりました。病室に多くの親戚が集まっていました。明け方4時に私は「今日から大学入試がはじまり、自分の人生はこの入試にかかっているので、薄情かもしれないが帰ります。」と言って、家にいったん帰り、自分で握ったおにぎり2個を持って受験しました。私は兵庫医科大学に合格し、医師になることを応援してくれていた父は一度回復したもののその直後出血性胃潰瘍で他界しました。

そんな強い思いを持って平成元年に兵庫医科大学に入学し、卒業後は同大学の第4内科に入局しました。入局した消化器内科に女性スタッフは研究生の身分の非常勤医師しかおらず関連病院で活躍する方はおられましたが、医局に残ってキャリアを積む女性医師はいませんでした。平成10年に教授のすすめで、兵庫医科大学大学院遺伝学講座にお世話になりました。そこで私は将来のロールモデルとなる先生と出会いました。同じ実験こそしませんでしたが、日頃から大学院生の私に声をかけて頂き、また会食にも誘って頂き他科で活躍されている先輩女性医師とも交流できていい刺激になりました。当時は准教授の立場の女性医師で仕事や研究に打ち込む姿は凛としてキラキラしていました。私がお世話になっている間にその先生は妊娠・出産をされました。いろんな事情があったのか1年取得できる育休休暇を早めに切り上げて復帰されました。当時女性医師のために院内保育所もなく、院外にも現在のようなサポートもあまりありませんでしたので、お子さんをどうして預けているのか気になって聞くと、3人のベビーシッターを雇って、勤務や会議で遅くなることもあるので、シフトを組んでもらっているのよと教えてもらいました。私は当時自分が妊娠や出産するなどとは全く考えてもなかったのですが、この先生との出会いが、のちのちにフルタイムで頑張ろうという私の気持ちに後押ししてくれることとなりました。

平成14年に大学院過程を終了し大阪市にある聖和病院に勤務することとなりました。平成19年に妊娠・出産をした際に、パートになろうとは一切頭に浮かばず、一時的に収入が減ったり、子育てに費用がかかったりしてもいいと割り切った考えを持ちました。数か月でも育休を取得したかったのですが、大学の医局から応援医師がおらず産休休暇のみで復帰しました。同医局の先輩の中で、「なんで育休とらへんねんや。とったらいいねん。」と言ってくれたのは大先輩の男性医師1名のみでした。同じ医局の女性医師からのアドバイスはなにもありませんでした。当時妊娠がわかると、常勤がいつのまにかパートになり、産休に入る前に退職させられ、復帰もパートからと条件は非常に悪いことが多かったのが事実です。そんな説明の時には必ずと言って、当直ができなくなるからとか、子供が病気で休んだらみんなに迷惑がかかるからと、子供の病気の時には女性だけが仕事を休むものといった風潮がありました。幸いにも私にはサポート体制がありました。生後から1.5歳までは実家に世話になり、家事の負担は軽く、院内保育所とベビーシッターと母とが助けてくれました。1.5歳からは住宅ローンの支払いをしながら、勤務先の近くにマンションを借りて認可保育所と院内保育所を上手く利用して、小学校に入学する前までマンション生活を送りました。一緒に勤務していた男性医師も子育てに積極的な先生が多く、子育てに理解がありメンタル的に楽でした。

妊娠して初めて保育料が高いとか、産休育休中は働いてないので給料が今までよりはさがるとか、保育所に思うように入所できないなどに気が付くと思います。令和になって時代もかわり、何年も前の子育てはそのまま参考になりませんが、いつの時代も何かしら時間とお金がかかって苦労があることは確かです。しかしながら子供はいずれ大きくなります。令和時代に医師になった先生方にも10年後20年後の医師としてのキャリアを考えて妊娠・出産でリタイアせずに頑張ってほしいです。サポート不足で一度リタイアされても早くまた復帰してほしいです。

2019年11月

2009-2013 Osaka Medical Women’s Association.