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女性医師たちの歩み

偶然?必然? 女医会との出会い

渋川 洋子

私は、江戸時代初期に発生し、日本歴史上最大規模の一揆といわれる「島原の乱」が起きた、九州は長崎県島原地方の出身です。夕日がとてもきれいな海、段々畑の緑、絵にかいたような田舎です。通っていた小学校は、全学年1クラスずつ、1クラス30人前後、もちろんクラス替えはありません(笑)。小学校、中学校、高校とずっと同じ町で過ごすのが当たり前の環境です。幼いころから医師を夢見ていた私は、もしかしたら越境入学で高校から地元を離れるかも?と考えていましたが、中学まではみんなと一緒に地元の中学に進む以外の道はないと思っていました。ところが、小学校6年生のある秋の日、担任の先生が私立女子中学校の入試のポスターをクラスのみんなに見せてくれました。中学校進学において一つの道しかないと思っていた女子達にとって、とても衝撃的でした。「違う学校に行っていいの?」「試験ってどんなの?」「どこにあるの?」「どうやって通うの?」放課後、興味のある数人が集まり、長崎県の地図を広げ、学校の場所を確認、私たちの町からの交通手段や時間、交通費はいくらかかるかなど考え、それぞれの両親に相談して、明日また続きを話し合おうとその日は別れました。私たちは、突然現れた新しい世界に、心をときめかせました。翌日、昨日とは打って変って暗い顔の友人達。受験はしないとの結果でした。子供の心とは異なり、大人の考えは現実的で、私立中学校入試など頭の隅にもない大人達は大変困ったそうです。塾もない町で育ち、入試まで数か月しかない中で、「受かるはずはない」という考えが理由だったように記憶しています。私の両親は非常に楽観的で、実力テストだと思って受けてみたら?と言ってくれました。合格したら地元を離れるかもよ?と問うと、合格すると思っていなかったのか、合格してから考えたら?と、これまた軽―い感じの返答。緊張感いっぱい、いっぱいで話をした私は、体から力が抜け、一人受験に挑みました。担任の先生は、ポスターが送ってきたので一応紹介したまでのようでしたが、受験希望者が出てきたことに大変驚いていらっしゃいました。そして、受験までの日々を支えて下さいました。一人、違う中学に進むこととなった私ですが、ミッションスクールの女子学校は、全てが刺激的で、美しく、熱心にお御堂で祈っていたため、修道院への勧誘をされ、修道女の自分を想像したりもしました。意図としない「お声かけ」から始まった中学受験をきっかけに、新しい世界の扉を開ける楽しさを味わった私は、その後も思いがけない「お声かけ」になびくようになります。幼い頃より、自分なりに進む道を決めている私ですが、それぞれのお声かけで道が変わっていきました。新しい道の新しい扉の先では、思ってもいない経験をしてきました。道を間違えたかな?と思うこともありましたが、振り返ってみると必要な経験で、それはまるで決まっていたかのような道でした。

女医会との出会いもそうでした。いつものように、誘われるがまま?に参加した勉強会で樋口先生とお会いしました。短い時間でしたが、引き込まれるように先生のお話を聞いておりました。会の最後に女医会のパンフレットを頂きました。「なんだがとても敷居の高そうな会」と感じながらも、「お声かけ」になびこうと入会させて頂きました。「なんでも相談会」のお手伝いや、講演会での出会いなど、女子校時代を思い起こさせる雰囲気がなんだかしっくりいってしまった私。これは、偶然なのか、それとも必然だったのか?新しい扉をあけたつもりで、懐かしい空気も味わうことが出来ました。

今回、理事の「お声かけ」を頂き、また新しい道を進み、新しい扉を開けることとなりました。これが偶然でなく、必然と思えるように頑張りたいと願っています。

2020年9月6日

2009-2013 Osaka Medical Women’s Association.